とりかへばや、男と女
河合隼雄さんが逝去されました。何度も読み返した「とりかへばや、男と女」の著者として限りなく尊敬しておりました。TVでもちょくちょくお目にかかり、「思春期とは吊橋を渡るようなもの。眼下に谷底があると気づくと渡れなくなる。谷底に気づかず渡ってしまう者もいるが」とか、「14歳なんて、まだ男か女かも分からないのに」といった発言に魅了されました。ご冥福をお祈りします。
高校生のとき運命的に出会った「とりかへばや物語」の分析、再評価はとても嬉しかったです。それまで「退廃的」と貶められてきた同作をユング研究所で紹介したところ、相当な関心をもって受け止められた由。
【性が入れ替わったまま成長する男女を描いた王朝文学『とりかへばや』。一見、荒唐無稽に思われる物語には深く重層的な心のタペストリーが隠されていた。「男らしさと女らしさ」「自我とエロス」「美と倫理」―。分裂していた要素は物語の中で結び付き、性差や社会的枠組みをしなやかに超えていく。】
こんな内容の本です、よろしかったら是非ご一読ください。文庫版では富岡多恵子さんの解説も興味深いです。
【歌舞伎、宝塚、ロックミュージシャン。観客にステキだと思われる「男」はきわめて女的であり、ステキだと思われる「女」はきわめて男的である。(中略)「とりかへばや物語」は幻想のステキな「男」と「女」が接していることを物語という特権によって見せてくれる。】との指摘には深く頷いてしまいます。
【人間は「男らしさ」「女らしさ」という二分法(社会的性別)がないと社会的秩序が保てないと思ってきた。近代から現代にかけては「二分法の病い」が進んできた。「心と体、自と他、善と悪などを明確に分離することにより多くの成果(特に自然科学の)を得てきた」が、二分法により分断された人間は全体性の回復を求めて、個人的、社会的に反乱を起こす。】
この本によって二分法の限界を考えるようになりました。白黒はっきり、は無理なのではないか。でも、映画や小説の感想などに接して痛感するのは、本来、明確に判断できないはずの善悪をはっきりさせたがる人の多さです。白でもなく黒でもなく、限りなくグレイゾーンとしか言えない(うかつに二分できない)ケースが圧倒的だと思うのですが。
(画像は岩手大学HPからお借りしました。)
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