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ブロークバック・マウンテン(290)

Brokebackmountain_2eiv_pic2  アン・リー監督の新作『ラスト,コーション/色・戒』がヴェネチア国際映画祭に出品されるそうです。BBMは2年前の同映画祭でグランプリでした。WISEPOLICY配給で日本公開は来年正月第2弾。早く見たいですね!

 スカパーでBBMが放映された際、出演者のインタビューが紹介されたことを教えていただきました(「IN FOCUS」という、映画を紹介する10分弱の番組にて)。その中のジェイクの発言が気になりましたので、ご紹介します。

【ジャックはラリーンへの感情を勘違いしてしまったんだ。男なら当然抱くと思う感情にすり替えた。そしてラリーンと結婚することにする。自分をごまかしているんだ。世間が正しいと思う生き方をしようとする。】

 ジャックは、ラリーンに好意をもったのは確かですが、それは恋愛感情とは違ったのですね。「男なら当然抱く」ですか。向こうも積極的だし(据え膳食わぬは男じゃないよ?)資産家の娘だし、いずれは自分も結婚しないとまずい。これは恋愛だと自分をごまかしたのでしょうか。イニスの考察はけっこうしたつもりですが、ジャックにもそんな面があってもおかしくはないですね。60年代の中西部の男だし、ジャックもホモフォビア(おそらく)の父親の元で育っています。

 世間が正しいと思う生き方が出来れば苦労はしないのです。誰でも一応、そういう方向を目指してみるのかもしれません。他者の目は気になります、特に田舎では。

【自分が何者で人にどう思われているか、僕も悩んだり考えたりする。自分とは境遇は違うけどこの役でそれを表現したかった。】

 ジェイクは同番組で上記の発言もしているそうですが、誰しも自分が何者か考えてしまうときはありますよね。人にどう思われているかも気になります。気にしなければいいのですが、そうもいきません。

 さて。「リバティーン」でも紹介した大場正明さんの「ホモソーシャル、ホモセクシュアル、ホモフォビア」(初出;Cut’06年4月号)について少し書いてみます。

 私はBBMの存在を知った当時、ホモソーシャル、ホモフォビアの概念がよくわかっておりませんでした。なので大場さんの記事もいまいち理解できず。今は何とかわかったようです? 

 山でのイニスとジャックはホモソーシャルな関係であり、当然、フォビアの要素もある。だからわざわざ「あれは1度限りのことだ」とイニスは念を押し、「俺はカマじゃない」「おれも違う」と、ジャックと確認しあいました。お互いにホモフォビアでなくてはならなかったのです。が、山を降りてからも関係は続きました。というより、本物の関係が始まってしまいました。

 ホモソーシャルとホモフォビアは切り離せない要素なのですが、北丸雄二さんがある実験について「男社会のホモフォビア」に書いています。フォビア男性の方がゲイポルノに反応する? 彼らは「男同士」が気になってしょうがないんですね。無理して欲望を抑えているのかもしれません。

 ホモソシアルの世界では女性もまた忌避されることも北丸さんはきっちり指摘しています。「ジャイアンツ」のホモソーシャルなシーンを思い出します。【軍隊にはホモフォビアだけでなく男の世界に割り入ってきた女性兵士に対する女性嫌悪(ミソジニー)さえ存在しています。】

 なるほどねーと感心していたら、今度はHiro-peeさんの「アメリカン・ビューティー」レビューを発見して唸りました。あの場面でフィッツ大佐の本性が分かるとは。(トップから「ザ・ゲイ」連載→「ハリウッドは悔い改めたのか<2000年8月号>。くれぐれも本編を見てからどうぞ。)フィッツ大佐の哀しみ、そうですねー。素直に本性を認めていたら、どんなにか楽だったでしょうに。私の感想はこちらです。

【「ぼくたちゲイはどこにだっている」「そうか/そうでないか、なんて誰にもわからない。本人にさえ」】というHiro-peeさんの言葉は重いですね。赤字部分、イニスとジャックについてもいえるのでは…。

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▲ブロークバック・マウンテンⅥ(251)~」カテゴリの記事

コメント

テレビでBBMを観ました。2回目でジャックは私じゃんなどと思ってしまいました。完璧な感情移入タイプですね。嗚咽が止まらず困り果てた末、びあんこさんのブログに辿り着き救われました。たくさんの情報もありがとうございます。
でもまだまだ怖くて立て続けに鑑賞できないでいます。20年から20年は、とうに過ぎていますので。で・・・分析に入ることにしました。とは言えBBM症候群である事には間違いありません。BBMの話を身の回りでしたところで、反応は予想できます。
ここ何日か、ジャックがジャックになったのは何時なんだろうかと考えていました。こんな事を考えながら仕事している自分は?
などと。
リー監督が叙事詩であるとの、びあんこさんの記事を参考に思いっきり行間を呼んでみました。
いらないシーンはひとつも無いのです。

トップシーンでイニスが独り立ちしなくてはならない事を教えます。あの大きなトレーラーは兄と姉の象徴です。イニスは寂しいけど、孤独ではなかったと思う。世間並みの目標を抱いて。
一方、ジャックは、バーでの会話「勘当されたのか?」と聞く、ってことは勘当されている。もちろんジャックの孤独はこんなものではないけど。兎に角順調ではないことは車を蹴る仕草で分かります。

イニスの前をに、いきなり通過する列車、前触れでしょうね。
車から降りてイニスに気づき、一瞬躊躇してから近づこうとする4歩・・でもイニスは、目を合わさない。でも、ちゃんと反応しています。同じく4歩、砂利を踏む音が聞こえます。そして、ジャックは去年過ごしたであろう山を見渡します。何かがあったのでしょう。
バーのシーンではジャックは「俺は2年目だ」と言う通り、2本目のビールをあけるところ。前般ではジャックの咳払いがよく聞こえてきます。このシーンの最後、イニスは、長いタバコを出して、ビールも2本目です。ライターを要求されたジャックは3本目で、ライターはそっけなく渡されます。俺はひとりで何とかやってきたんだって。たまには、女を買えたかも知れません。

これら一連のシーンからは、私は皆とは違う印象を持ちます。
何日か経った日の、ジャックの小用を済ました後の仕草はどうでしょうか。バックルを2回はじきその下を軽くはじいています。やる気満々だったのでは?イニスは内気そうだし・・・「山から下りたら世帯をもつ」にジャックはそれには答えず「火を焚かずに野宿しろか」 これって1度もセックスなしで結婚か、と言っている様,勘ぐりすぎですかね。でも、序曲ですから。

状況はおそらく熊に出くわした時でしょう。思いもかけずイニスから乱暴な言葉が出てきます。ジャックが血を拭こうとすると、自分でやると・・役割分担は自ずと決まってきます。ジャックはコヨーテ(羊の敵であり、偏見の社会の象徴でしょう)を撃つ事ができないが、イニスは撃てる。「豆はいや」I want ・・なのですが、ヘラジカさえも仕留めるることができます。男になってきています。
あの肉を食らう場面、黙々とあさっているこの場面、腹だけではない事は確か。飢えているんです。何に?
これが二人の関係を決定したと思う。

イニスの寂しさと欲望、ジャックの優しさと孤独の深さ・・

「イニス!」と呼んだ時の声は、まだ男だったと思う。イニスの手を自分に持ってきた時も。もみ合う二人の瞳の中で、決まった。
スローで観ても、ジャックが待っている時間は結構長い。葛藤と優しさを感じるのです。イニスはすでに唯一の友達なんです。
夕方の会話、この会話を文字通り受け取らなければ、この映画は成り立たない。ジャックの顔に手放しで喜んでいる風はありません。
2日目の「すまない」「いいんだ」にしても、帽子で前を隠してくるイニスの言葉であっても言いし、友達にこんな事をさせてしまったジャックの言葉でもいい。俺たちはこれで・・も序曲ならこれでいい。

襲われて死んだ羊、あれはまさしくジャック。あの場面ではさぼっとしまったイニスの罪悪感ですが、やはり、守ってやらなくてはいけなかったのです。後の「兎はコヨーテに追われ・・」と対になります。私には赤は、やはり血、死です。死にそうだから会いにくるんです。あの赤いベスト、奇異に感じなかったですか? 何か血が噴出しそう。でも、ジャックはイニスを慰める。
イニスにも一度は血を流させなくてはいけない。投げ縄のシーン、私はジャックがイニスを殴ったのか知りたかったけど、殴っていないし、肘も当たっていない。その代わりに、縄がイニスから外れ、ジャックに絡みつく様子がしっかりとピントを合わせて撮っている事が分かりました。しかも、2本。序曲の最後の場面です。

びあんこさん、長々とまとまりの無い文章でごめんなさい。思いっきりロマンチックな見方だって事も分かっています。お付き合いありがとうございます。


投稿: janis | 2007年7月23日 (月) 02時14分

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